誰も語らない!尼崎事件の背後にある本当の問題とは?

ちょっと前のクローズアップ現代を予約録画していたので、今見終えたところでしたが、あの尼崎事件はやっぱり異常ですね。他の事件と比べて、暴力と恐怖の質が圧倒的に違う。

コメンテーターの人が言っていましたが、「人は問題を抱えると、それに立ち向かうか逃げるかの行動をとるが、どちらも選択出来ないと、問題に対して服従してしまう」と言っていました。

おそらく心理状態としては、問題に対して思考停止状態になっており、操りやすい状態にしてしまうんだろうと思います。

しかもほとんど接点のない家族も含めて、計3~4家族に深く入り込み、次々と洗脳していく様子をみると、本当に住田被告単独の力から始まっていった事件なのか?もちろん何人かのチンピラのような人を家来にしていきながら勢力を拡大していったんだろうと思うけど、バックに協力者がいたんじゃないか?と思わざるを得ないですね。

住田被告が一番の悪の根源なのは間違いありませんが、彼女の力を増幅させたのは兵庫県警だと思います。

クローズアップ現代で何故兵庫県警の「見てみぬふり問題」を取り上げなかったのか不思議でなりませんが、被害者は何度も何度も警察に相談に訪れています。

つまりその時までは被害者(後には加害者に染められてしまう被害者も含む)にも「考える力・理性」はあったわけです。

しかし、兵庫県警は対応しなかった、これは大津事件児童虐待致死事件も構造は同じです。

権力を持った公的機関の「事なかれ主義」が、事件を増幅させた原因

助ける為の(公的な)力を与えられた人達が助けなかった…、尼崎事件も、大津事件も、児童虐待致死事件もそうですが、被害者達は「問題」に対して戦うことも逃げる事も出来なかった、

沖縄に逃げようが住民票を調べて追ってくるし、子供はそもそも自立する力がまだありませんから、引越しするとか「今いる環境」から逃げる事が出来なかった。

頼みの綱は権力を持った警察ですが、彼らがなにもしないんじゃあ、被害者に「誰も助けてくれないし、逃げ場もない、相手が強過ぎて戦う事なんかとても出来ない・・・、」と思わせるのに十分ですよね。

そういう物凄いストレスから身を守る為に、「服従」「思考停止」に陥るのでしょう。これは「事なかれ主義のなれの果て」です。

公的権力を持った人がそれに陥るのは非常に深刻です。今起こっている様々な政治問題も、そのほとんどが「事なかれ主義」に端を発しているように思います。

問題がまだ小さいうちから対処すれば結構楽に済むのに、「めんどうくせぇ~!」つって、見て見ぬふりをする。

そのうち問題が対処困難なほど大きくなってきて、見て見ぬふりすることが出来なくなって、問題が明るみに出てそこで初めてあわあわしはじめる。

社会保障の財源問題なんかまさに典型的です。ガンも同じです。問題が小さいうちから対処すれば、完治も比較的難しくないでしょう。

「見て見ぬふり」をせず、全て「自分と関係あること」と思って行動することを心掛けるべき!

私もガンになってからは、見て見ぬふりを極力しないように、と心掛けています。それは自分に関わる問題はさることながら、それ以外の問題に対してもそうです。

直接ガンの再発防止に関わる事ではないのは分かっていますが、ガンになるのは「自分の体が発する声に対して無関心だからである」という独特の考えを、私が持っているからです。

他人に対して注意する事って、非常に面倒臭いですよね。それを出来るだけ行うようにしています。そうすることによって、自分に起こっている問題に対しても見て見ぬふりをしないようになるのです。

まぁ今回の尼崎事件に対する兵庫県警の態度をみると、「意図的に見て見ぬふりをしている」ようにすら感じられますがね・・・、

まぁそれはともかく、私が思うに、昨今日本で起こっている様々な諸問題は、全て「事なかれ主義」から端を発しているんじゃないか?と思っています。

それは尼崎事件や大津事件や児童虐待致死事件などの痛々しい犯罪事件だけではなく、政治問題、福祉問題もそう。「他人に対しての無関心」からきています。

他人と争うのが、国と争うのが嫌だから、面倒臭いから、とにかく問題を後回しにします。そのツケを払うのは後の世代達です。

「後の世代にツケを回すな!」とか言っている大人は、まず政策云々よりも「他人に対して関心を持つ」ことから始めたらいかがでしょうか?

自分自身に対して「事なかれ主義」になっていないか?

また、尼崎事件・大津事件・児童虐待致死事件などの犯罪事件や政治・福祉問題が「他人に対しての無関心・事なかれ主義」から端を発しているとすれば、

様々な中毒(アルコール中毒、パチンコ中毒、過食・拒食)や健康問題は「自分に対しての無関心・事なかれ主義」に端を発しています。

自分に興味がない、もっと言えば「自分が今後どうなっていくか?」に対して考える事をしない、「自分の未来」に対して、あまり興味がない、それは「今を大事にしない」事につながってきます。

「今を楽しめればそれでいい」という思考につながっていくと思うんです。

「今、この時間酔っ払って楽しめればそれでいい」

「負ければ今月のやりくりが出来なくなるけど、今楽しければいじゃないか!勝てばいいんだし…、」

「食べる事が幸せ、後で思いっきり吐くかも分かんないけど、食べたいからとりあえず食べる!」

そういうふうに考えてしまうのは、自分に対して関心がないからです。

彼らの中に「未来」がないんです。「より良い未来」が・・・。

「より良い未来」が思い描けないから行動を制御出来ないし、「より良い未来」が思い描けないから行動に移せないのです。

そりゃーね、「日本はダメだ」「シャープはだめだ」と何度も何度も耳にタコが出来るくらい聞かされたら「より良い未来」を描けないのも無理はありませんよね。

だから若者の一番好きな言葉は「普通」だし、一番人気の職種が「公務員」なのでしょう。

何も出来なくてもいい、だけど自分や他人に対して無関心になってはダメ!

そのような状況を打開するには、(遠回りかもしれませんが)まずは「他人や自分自身に対して関心を持つ」ことから始めないといけないと思います。今回の尼崎事件を見てそう思いました。

いくら住田被告本人が強大な力を持っていたとしても、周りにいる人間や警察が、問題が小さいうちから「見て見ぬふり」をしていなければ、被害者はこれほど出なかっただろうと思います(※周囲にいる人間は見て見ぬふりは決してしていませんでしたが、問題が小さいうち、つまり住田被告が他人の家族に土足で上がる前に対処出来ればもっと良かったです。そういう意味での「見て見ぬふり」です。まぁ、実際はかなり難しかっただろうな、と思いますが)。

特に兵庫県警の対応は最悪です。「自分一人ではとても対処出来ないような問題に遭遇しても、周りが助けてくれればなんとかなるかもしれない・・・、」そういう環境が整っているほど、人は「より良い未来」に可能性を見出す事が出来るのです。

今回はそういう希望が一切見出せませんでした。兵庫県警の罪は重いと思います。

ちゃんと叱れる、こわ~いおじさんの思い出

私がガキの頃、近所にはとても怖くて恐ろしいことで有名なおじさんがいました。この人のげんこつは半端なく痛くてたまりませんでした。

私もよくやんちゃをして泣かされたものでしたが(苦笑)、今思えば、彼は「見て見ぬふりをする大人」ではなく、「他人に対して関心を持っている大人」でした。

子供が悪いことをするとちゃんと叱る事が出来る大人でした。そのやり方がいささかやり過ぎな感がありましたが、自分の子供がこっぴどくどつかれて泣かされようが、その子の親はおじさんに対して親しみをもって接していました。

むしろ感謝していたくらいです。それはおじさんの生き方・考え方に筋が通っているから彼の行動を理解出来るし、それによって自分の子供を良い方向に教育してもらっている、という思いがあるからです。

子供の頃の私には分かるはずもありませんでしたが、おじさんは近所に住んでいる若い夫婦からは頼りにされている、信頼されている存在でした。

そういうおじさんが周りに結構いたもんですから、私のような悪ガキとしては、どこでいたずらをしようが、誰か大人が必ず見ていますから、そこで間髪いれずに叱られるわけです。

今は目の前で悪さをしている子供がいても、注意する大人はほとんどいません。

平日の昼間にも関わらず、徒党を組んで街中を歩いている学生を見ても、大人はおかしいと思いながらも「見て見ぬふり」をしています。面倒臭いんでしょうね。

確かに人数が多ければ躊躇するのは分かりますが、交番や警察の方さえ声をかけない事があるのはいかがなものか?と私は思います。

私が青年・大人になるにつれて、おじさんに対して昔のような恐怖を感じることはなくなりました。それは私が強くなったわけではなく、おじさんが私の成長に合わせて態度を変えていただけでしたが、「暴力的な金八先生」という感じで(笑)素晴らしく、尊敬できる大人の一人でした。

頭も良く、理路整然とした人格者という印象でしたが、もうだいぶ前に亡くなってしまいました。

別に彼のように理路整然として頭が良い大人である必要はありません。そういう人は少ないから(苦笑)ただ、「無関心でない」大人になるだけでいい。

何が出来なくてもいい、次の世代に対して何かを残す事も、何を教える事が出来なくてもいいから、とりあえず「あらゆる物事に対して無関心になる大人になるな」ってことです。それが出来る大人が増えれば(即効性はないですが)かなり世の中は変わるでしょう。

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コメント

  1. あみ より:

    いつも勉強になるブログをありがとうございます。

    一点引っかかったのですが、「過食、拒食」とは所謂過食症や拒食症のことを仰られているのでしょうか?
    もしそうだとするならば、私は、摂食障害の患者は決して幸せを感じながら食べているわけではないと思います。
    むしろ通常よりも極端に食べることに対して罪悪感を持ちながら、美味しいとも幸せとも感じないまま、時には涙を流しながら、苦痛を感じながら食べているはずです。
    そして、食べてしまった罪悪感から通常では考えられないくらいの負荷をかけた運動を長時間をしている人もいます。

    自分の感情や食に対する感覚が狂ってしまっていることは確かですが、この場合は、自分のことに対して無関心なのとは真逆ではないかと思いました。

    経験者なので少し気になってしまいました。
    単なる大食や極端なダイエットのことでしたら申し訳ありません。

    • 新里(管理人) より:

      あみ様、コメントありがとうございます。

      >自分の感情や食に対する感覚が狂ってしまっていることは確かですが、この場合は、自分のことに対して無関心なのとは真逆ではないかと思いました。

      「自分のことに対して無関心だから、自分の感情や食に対する感覚が狂ってしまう」
      というのが私の意見です。

      症状がひどくなる前の段階のことを私は指しています。私のように、症状がひどくなってから病院に行っても少し遅いのです。

      症状がひどくなれば、誰だって関心を持ちます。
      ものすごい量の血便が出たら、誰だって関心を持つでしょう。

      あみさんも書かれていますが、食事はとても幸せを感じるもののはずなのに、「苦痛」だったり「罪悪感」を感じてしまうのはどう考えてもおかしいので、その段階に陥れば、誰だって関心を持つでしょう。

      しかし、それは本当に「関心を持っている」と言えるのでしょうか?
      そのようなひどい状態になるもっと以前から、体はなんらかのSOSを発していたはずなのです。それに気づけなかった、あるいは無視していたのは、「自分のことに対して無関心」だからだと思います。

      日本人は「察する力」が優れていると言われますが、私は最近その力が失われているんじゃないかと考えています。

      でなければ、この記事で紹介したような凶悪な事件が起こるはずがありません。何人もいなくなっているのに、その「異常さ」に気づかないはずがありません。

      これも「他人に対する無関心さ」や「他人に対して共感する力・察する力」の衰えが根本にあると思います。事件が未然に防げたかまでは微妙ですが、他人に対して関心を持っていれば、少なくともあそこまでひどい事件にはならなかったでしょう。

      他人に関心が持てないのだから、自分に関心が持てるはずがありません。
      なので「小さな異常」が起こっても、なかなか認識できないんじゃないかと思います。

      小さな変化を深刻な事態へ発展させない為にも、体の感覚を鍛える必要があると思っています。

      新里

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